茶の湯・茶道と切り離せない存在としての”懐石”

意味は人口に膾炙しているので特に挙げる必要もないのであるが、禅宗の修行僧が空腹を紛らわすために温かい石を抱いたのが始まり(その辺から”温石”などとも言うわけですが)。

さて……今の世で”懐石”乃至”懐石料理”と触れる場合には

特にお茶を嗜んでいる人間以外の一般人が食事をしに行く時の相談などで出てくる場合にはあまり良い顔をされないことが多い。

それは……「高い」「不味い」「なんとなく敷居が高くてとてもとても」……と言ったところだろう……

実際に”和食”=”懐石”と言うイメージがあるわけだが(他の和食となると……”寿司””天麩羅””すき焼き””そば”……せいぜい”すっぽん””ふぐ”か……)

要するに「喰いつけていない」と言う事だろか?

もちろん、フランス料理であれ中華料理であれ……社用族的な接待の中で「喰いつけている」「喰いつけていない」と言う事は大きな要素であると思うのだが(w

”懐石料理”自体の敷居が高すぎてしまって、容易に食べに行くと言う事が難しくなっているのがどうも……(´Д⊂ヽ

基本、人口に膾炙と言うようにある程度のボリュームゾーンがあってはじめて文化?であったり、趣味の世界?として認知されていくような部分がある。

そういう意味で、古典的な”鉄道模型”などは一定のボリュームゾーンをもって……しかも下は庶民から上は王侯貴族の貴顕までをも魅了する懐の深いものになっている。

その懐の深さがあるからこそ「過去」を経て「現在」そして「未来」へと繋がっていく流れが出来ているように思う。

が……

”懐石料理”に関して、”鉄道模型”と比較すること自体がそもそも間違いであると言う事にもなりそうだが……

”鉄道模型”的な意味合いで ”耽溺する” ”寝食を忘れて没入する” と言うような ”懐石料理”と言うものをトンと聞いた事がない……

これが”フランス料理”や”中華料理”となると……鐡道模型と同じように ”耽溺する” ”寝食を忘れて没入する”と言う話は幾らでもある。

日本人が「食事」と言う事を全面に出すと言う事にある種の奥ゆかしさから引け目を感じていた……と言う事もあるかもしれないが……

”懐石料理”に関して 「美味しいので何度でも食べてみたい…耽溺したい!(´▽`*)」と思わせるような事は少ない……

そういう人身を紛らわす事が無いと言う意味では”懐石料理”こそ”接待の料理”・”饗応の料理”と足るに相応しいのかもしれないが……

「美味しさ」と言う実質さから乖離した形式的・儀礼的なモノとして重宝されるのであれば……

やはり”食べ物”と言う本義からはどんどんとかけ離れて行ってしまうのではないか?

そして……どんどんと人間から離れて行ってしまうのではないのか?と言う事を思ってしまうのである。

「見た目に綺麗で季節感を感じて」………などという能書きは良くみるところだが(最近はそんなフランス料理も多くて嫌になるが (-。-)y-゜゜゜ )

「美味しさ」を全面に出している事はあまり知らない。

「盛り付け」や「季節感」は、そもそも料理の味を引き立てるために在る筈。

それからドンドンと外れるのはどうも……

やはり”懐石料理”が何者で有れ……食べ物である以上は”美味しさ”を全面に持ってきてほしいのである。



さて……そう言う”世俗の懐石料理”に比して……

”お茶における懐石料理”に関してもいかが……なると………

なかなかに「美味しさ」を言う事を全面に出すわけにいかない理由もあるだろが(お茶における約束事云々)

しかし……そもそも ”お茶” や ”懐石” など 人の飲食に関わる部分も大きい事も否定はできないのであるから……

やはり 「美味しいお茶」と言う事だけでなく…「美味しい懐石」と言う事にも…お茶の約束事を担っている方々には期待をしたいと思うのである。


「美味しければ」……色々な事に不満があったとしても昇華されてしまう

しかし

「美味しくなければ」……そこに料理以上の感動が無ければ不満ばかりが残ってしまう

リッツカールトンでもあるまいが……”期待を超える感動”と言う事は重要な要素でもあるのではないだろうか?




にほんブログ村 その他趣味ブログ 茶の湯・茶道へにほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 株ブログへ